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芸術についての作文~☆章  [ハラコマテリアル]

お久々のマテリアル。
ムラマツも元気ですからご安心下さい(笑)
なんかこう、頭の中を整理する必要があるもので。長文です。
ハイ!スタート。
過去があって、今があって、未来へ向う。
先のことを想像することで、今生きることの責任を重んじる。人に歴史、国に歴史。
歴史を辿って想像をする、今存在する物がどのように変化したのか、変わらず残っているのか。どのように生まれたのか。なぜ必要となったのか。今も必要なのか。

私たちの祖先は、同じ国の中で人が人の命を斬って領地を奪いあい、国と国とが戦って他国を荒らし傷つけあい命を撃つことも現実の記録に残しました。幸い日本は敗戦を切っ掛けに戦争をしないと誓い平和が60数年続いています。
それでも、他国のニュースは目にしますし、戦争映画も作られます。体験せずとも、記憶に残されるということで、なんらかの意思を引継いでいます。そして、戦争に加わらずとも、まったく武器を捨てたわけでもないし、残虐で惨忍な事件も普通の生活で起きてきたし、今も起きている。社会では人が人を斬る容赦ない解雇が現代の人斬りとなるのでしょうか。

今よりも前に生まれた人ほど、争うことを知っている血が色濃い。このまま平和が続くならば、もっと争いの血が薄まる。そんな気がする。戦争を知らなくて闘争心を失ったとしても、誰かのせいだとか何が悪いとか復讐を煽るような植え付けは必要ない。人が人を尊び、人により人が成長し、お互いの幸福の為に人が存在することを認識すれば、人を思う強さに変わり、逞しさや優しさが増すのかもしれない。悲しい事実を体験した先輩達が身を持って人の命の大切さを教えてくれたのだから同じ過ちを犯してはいけない。

さて、【今】も誰かにとっては昔の歴史として学ぶ材料となる。
例えば、戦後100年の間の日本の歴史を教える時に、戦後で何もかも失った(無)の中から、技術や経済の発展と政治による社会を作り上げた経緯、作ることに専念した時代から後半の約40年はエコや環境、人に目を向けて今の基盤を作り上げてくれたのだよと。
幸せであることや心が豊かである時代になっていることを想像してみる。
だってね、このまま続いて良いわけないじゃないか!ってことに気づいてる人はいるはずなんだ。もしか未来の日本人は不平不満だらけで、今の私たちが何もしなかったからだと責めるかもしれない。逆に現状に堪りかねて、戦後100年以降に奮起する時代がやってくるかもしれない。歴史の中のいつのどんな時代に自分は存在していたいだろう。
今が良ければいいとは軽々しく言えない責任を背負っているのだと思う。

今も社会を動かすトップ達は中・高齢者が多い。
争うことや、奪うことや、壊すことも、独占することも、進歩することも、作り出し生み出す力を備えていることも知っていて、時代の移り変わりの中で沢山の物を築き上げてきた人達だ。むしろ、作りすぎた社会の中で、過去から続いていることをどのように引継いでいくべきか、今生きていることの責任はその選択と判断にあると思う。
必要か必要ではないのか、残すべきか、廃止するべきか、変えるべきか、増やすべきか、続けるべきかなんてのを選んで、決断して、改めてスタートするような変革の起点となる時代かもしれない。

例えば年金も、現在対象として受給されている、勤続何十年まじめに働いてきた高齢者にとっては、有り余る程の金額だとしても、その孫、ひ孫まで幸せな老後を暮らせるような取決めではなかった。もう既に崩壊と言ってもいい未来への不安を抱えている。そして、その基盤ともなる雇用問題にも悩まされている。義務を守り、お行儀良く入学・卒業を繰り返し、社会の一員に近づく準備は出来ているのに、下から押し上げても上が動じないから人が溢れる。資格だ大卒だと制限をつけ審査して時間稼ぎのようだよね。同じ服装や髪の色で並べて何を見るだろうか。本当に人を選ぶ目を持った人によって選ばれるのか。

働けない、学べない、親元から離れられない、自立しない。よって親にも子にも負担。そのような社会で育つ子供たちの今後を危惧してしまう。先人の決めた日本のシステムは、戦後から60数年の経緯の中でも、その先を見据えたものではなかったという現状。どこまで先の未来を・幸せを想像・創造して、どのように引継いでいくべきか。

と、ここまでは何かいつもと違うタイプの要素を語ってみましたが、何かを想像する為の【力】として、人が持つエネルギー・才能に目を向けてみたところ、様々な方向に飛びつく流れになってしまった為に必要な要素だった訳です。なので、飛びつくけど深からずといった具合で、追求されると困るんだな~。

スポーツや芸術で、表現される人間そのものから発せられるエネルギーは、人を動かすことの資源だ!ってのは、ずっと揺るがない思いです。私も、そこから学んだ経緯があるから。なので、ずーっと続いていて欲しいし、残していきたいと思う。いつまでも夢や希望を失わせない源であって欲しい。そうした影響によって社会や人が動くことの原動力を自身に備えているのだとしたら、とっても重大な役割ですよね。

そんな感じで今日はここまで。【続】

芸術についての作文~☆章  [ハラコマテリアル]

さいっさー。
またまたマテリアル更新しちゃいます。

おそらく、スポーツってのは、見てる人もやってる人も、周囲の人間も誰もが、様々な形で感動を得ることができる。
勝敗がはっきりしていて、その時間に集中する感覚も心地いいのかもしれない。
単純に、真っ直ぐに、何か目指すものに向かっていく姿勢ってのは、自分を中心に周囲の空気に何かしら影響を与えることがあるっていう、ひとつの才能。
毎回そのような場面が見れるし、感じたことの素直なコメントも聞ける。
オリンピックも終わって日も過ぎましたが、今回も人が人に与える力・エネルギーの存在が実証されたのだと思う。
小さい頃から自分の夢を見つけて、その夢に向う。
叶うことを想像して、他人とは全く違う時間も過ごす。
挫折や怪我も、世間の目も受けて、色んな情報の中にも混在しながら、純粋に努力して精神的に・体力的に自らを整えていく。
ただただ鍛えるだけでなく、強さだけでなく、しなやかさや、線の細さや、俊敏さも、食事も、内から外から人間のあらゆるものを使ったり探ったりして表現する。
大概スポーツ選手って、インタビューとか、若いながらもしっかり話す印象があるのは、自らを整える過程の中で確認しながら挑むことや、誰かの言葉や状況で、変化したり吸収することで自分を知ることに長けていくからなのか。
失敗も成功も色んな場面の自分を身体で心で感じとることで、記憶をたどることも無理なくできれば、伝えることの表現も豊かになるのかもしれない。

まぁ、しかし他国に比べ日本は国代表として舞台に立って戻ってきても、華やかな対価を与える国ではない。 老若男女・政治家もコメント残すくらいだし、あんなに沸いた事実がありながら。。。ん?もしかしたらメディアを通してでしか得られない情報の中には{いやそれ程でもないよ}ってこともあるのかもしれないけど。
それでも一日を通して話題になっていたと記憶している。

さてな!どこまで?どうあれば?立派で誇らしいことだと褒め称えられるのか。
もっと頑張れまだまだ頑張れと言わんばかりの、過去から受け継がれた平等さを面白みもなく続けていくのだろうか。今後も。
これって人としてどうあれば、どう評価を得て、国の代表としてどのような姿でいれば良くて誰が納得すれば正当な評価を戴けるのか?って疑問。
ここにも、人生の仕掛けがあって、日本人の性質が関ってくるように思える。
勝敗のあと一歩!の差が(性)そこにあるような。

目指すべき目標として、本当に素晴らしいと思える人が目の前にいる。
どんなに努力しても、純粋に物事に取り組んでも、沢山の人に感動や勇気を与えても、社会的な経済効果に反映されても、ここ日本では正当な評価は難しいのだとしたら。
この人達ですらこんな扱いなのだから、普通の人並みレベルでは何をしても誰も思うような評価をしてくれないんじゃないかとか、ちょい悲観的になってしまう。
どこを見てくれてるんだろうか、どうせ、そんな大人ばかりさ、なんてね。
世界の凄い!は、母国でも凄い!と知らしめるべきじゃないかと。
だって、武器も持たずに他国と戦えるなんて、頼もしい、逞しい姿じゃないですか。
戻ってきても、国内では思うような環境で練習できていないとか聞くと不思議でしょうがないんだよな。

あぁ、こういう人達こそ幸せになってもらいたい。
この人達が幸せで優れた環境の中で成長して、また大舞台に出た時には、一際素晴らしい感動を得られるのではないか。だとしたら見てみたいじゃない☆
同じ時代に生きていることを喜びましょうって感じ。
スポーツに限らず、衣食住文化、芸術文化で表現される殆どが、人生や人間性に関わっていて、感情や感覚を鍛えられたり、養われたりする。
無くてはならないものだと思うし、体を張って教えてくれる人達がそこにいるから、助けられている。その人たちが堂々と立てるように、道を指し示してくれるように、環境や正当な評価を与えられたらいいのに。

そういえば
高くて良い物は愛着を持って使う、代々引継がれてゆく良さもある。
だからブランドは環境を救う。が!日本人にはそのような習慣はあまり無いようだ。と何かの本か誰かが言ってた。っけ。日本人の歴史や性質が影響しているんだろか。

【続】

芸術についての作文~☆章 [ハラコマテリアル]


さて。今年も引き続く
マテリアルるるるru~。

本当はさ、とっても無力でちっぽけなんだ。きっと・・。

----何年か前の話しをひとつ。
あるバンドさんがいまして、声が歌が好きでね、彼らの表現も面白くて、面白いって言っても笑える!じゃなく、こんな表現方法もあるのか~、って想像して広がる感じ。
新しい感覚が得られる面白さ。
当時は、どう関わるのかも立ち居地も曖昧で、うまく近づけないまんま。
普通に作品をライブを楽しみにしている、ひとりでした。

事務所は急いでいたんだな、その頃。
彼らと一緒に仕事をしようと手を挙げるレーベルを探していたんだ。
それもなかなか決まらなくてね、なんだか期限もできていて、この日のライブで決まらなかったら関りさえ危ういと言った感じで。
ある日、話し合いの場で、彼らが決めたのは解散だった。
小さな小さな空間の、部屋の中、ほんの数人が集まって、他人の人生の決断を見る。
スポーツ世界の体力の限界とか、怪我での離脱決断なんかと全然違う。
本当にちっぽけな空間で、人目にふれずに静かに終わった。
なんだか、なんにもできない人だった。自分。

彼らの才能に惹かれていたのは間違いないのに、間違いないって思ってる内側の人達が、そんなに判ってない外側の人から何の反応も得られなかった、たったそれだけで、彼らの息の根を止めた。
なんか、方法は?手段は?
そんなに急く急くしなくても、続けられる場はあったかもしれないし、まだまだ未来ある若い子等を前に、親族でもないのに、人生の決断を迫るなんて、ホント何様なんだろかね。
褒め称えた時間も嘘、良し悪しを決める判断能力も偽者、不条理なことが当たり前に起こっている、そして、組織・集団の中では、それが当たり前なんだと思わせるような空気も存在する。会社となれば当たり前に、お金を生むもの動かすものでなければならないのもわかる。遊びじゃないんだからってさ。でも、そのスピードはなんだか違和感も感じる。
そうやって業界の歴史が築かれてきたんだろうかと問う。社会の在り方さえもね。

今でも聴いてるんだよ。MD。
もっといろんな人に聞いてもらったらどうだったろ。
もっといろんな表現を感じたかった。
まぁ、今更勝手な話。


さてと、人が表現するうえでは、時間も期限も、誰かの評価も、誰かのGOサインも、世間体も、圧力も、権力も、こうじゃないといけない!とか、築かれたレールに乗っかるだとか、打算的な考えも、縁もタイミングも、そんな作られたオトナのルールなんて全く関係ない。
ロミオとジュリエットのようだ、お隣のおじちゃんと自分とこのおじちゃんの仲が悪いから、その孫の孫まで仲良くなれないとか、自分が生まれる前からできた関係性とかで勝手に作られたルールを右に上に倣えなんて社会さ。
あれれ、少し話が飛んだがな。

とにかく本来は自由だ。
なんかこう、心か頭か宙にある、表現者特有の素材を、あーだこうだといろんな道具を使って伝えたい方法で、形に変えてゆく、それを残すことで作品として存在させる。それを人前に出る・出すことで、その他大勢・不特定多数に向けて発信しようとする。自らのあらゆるものを使って、他人よりも何よりも表現することに時間を費やし、頭を使っている。そういう人達だからこそ、人前で発することに独特な影響力があり、人は魅了されてしまうのだ。
芸術作品には単なるパッケージ化された物質的な要素としてだけでなく、その奥深くに精神的に満たされる要素がある。究極は目に見えない。
本当はそこに、価値があることをもっと知らしめるべきだとも思う。

今あるパッケージ化されたモノの価値は、どんどん下がっている。それが、表現者の価値が下がったことには繋がらない、それを商売とした人達の思惑がどこかで狂ってしまったのだと考える。ならば、表現者が表現者でいられる方法を探そう。
人が人に与える要素が人にとって必要な資源であるかのような価値。
実際、{衣食住}目で耳で肌で舌で鼻で感じることのできる芸術文化によって、生かされているような感覚や、それを糧として日々を過ごす思いがありませんか。
今、そうして表現する人たちが、生きている間にその思いを残してくれないと未来に繋がらないんですよ。

必要だな、無くなっては困るなと思えば、自然と守りたいという意識が働く、ただそれだけで今私は動いているのですが、さて、何を残せるだろうかと、未来にも繋がるように残せるのだろうかと。そんなことばかり考えています。
大口叩きますけど。でも、私はちっぽけなんですよ。
【続】

芸術についての作文~☆章 [ハラコマテリアル]

先日、【企業と文化の関係】という、講演を聞きに行ってきました。
普段考えていることから更に発展するようなことに期待も含めて。出演の辻井喬さんは、セゾングループ創業者として経営時代を創り、一線を退いてからは自らが作家として執筆活動をするといった、面白い経歴の方。企業と文化の繋がり― 百貨店ビジネスを築き上げて行く中で、並行して推進してきた芸術文化への働きは、美術館・劇場の建設や、文化財団、海外交流など様々。文化を支援することで経営の成功にも繋がるとか、友好の為の海外展開の失敗から得たものは損して学ぶこと、お金から→クレジットカードの時代が来るなどの転換感覚、実際に形にしてきた人の言葉は面白い。ぽつぽつと思い出を語るような語り口のお爺ちゃんでした!

そして、もう一つの講演体験。
【ブータンが目指すGNH(国民総幸福量)】辻信一氏(文化人類学者、環境運動家)
人類の歴史・文明・経済成長・豊かさの概念・ブータンの今。幸福であることへ向けて、自然環境/伝統文化/良い政治/公正な経済発展という4つの柱をテーマに活動されているそうです。ここで聞いて得て伝えたいことは沢山有りすぎます。実際に行動に移している姿は頼もしいし優しくて言葉の強さをずっしり感じてきました。
どちらとも、とっても興味深いお話を直接聞けるって贅沢だな~って思いました。まぁ、勝手な思いですが、なかなかどうして、私の考えもぶれてはいないなという印象です。欲っしてるものがタイミングよく頂けた、そんな感じです。アンテナが、すーっと立っておりますよ。

さて、経済不況と言われる時代だからこそ、文化の発展に目を向けることで、幸福さを感じる人間の心や質が変わる、その流れが景気の循環にも繋がるのではないか。偏に芸術文化の発展・継承していくことをテーマにしてみても、ぐぐんと掘り下げていく必要があって、過去と未来を繫ぐ過程の今をどう生きていくべきか?みたいな大きなテーマができてく。そうすると、社会、経済、日本国内、国外、歴史、思想、宗教、生活、戦争、環境、、、人が生存している地球の中で様々な事象と共存していくことに繋がってって・・デカイイイ!!大きいテーマではありますが、一人一人の意識だとか、個が逞しく頼もしい存在にあって集まったとしたらば、それほど難しいことでもないような気もする。とりあえずは、争うことの醜さを終わらせられたらいいのにな。

今を100年に一度の不況だと騒いでいる国もあれば、全くそんな状況ですら知りえないでいる国だってある。人間一人が100歳生きてく中で起きる波乱万丈伝と、組織・集団の手によって破壊され消滅しかけている自然界の100年との比較を思うと、地球の寿命を短くするのも、長くするのも、人間の生き方で違ってくるのでは?とも思う。ん~。こういうテーマはずっとずっと長く考え続けてく事かもしれないけれど、遅いといえば遅いような、危機感をもっていろんな意見を聞いてみたい。常に向き合う姿勢があれば回避できることもアイデアも見えてくるんだろうなと。

戦後から今まで、近代化を目指し・世界の中の日本としての存在が確立されてきて、今を今に築いた日本の先輩方には感謝すべきことかもしれない。それだけ、出来る人達が集結し頭脳も技術力も兼ねそろった働き者の日本人なのだ。その反面、作りすぎた、壊しすぎた、所有しすぎた、独占しすぎた、価値を上げすぎた、決まりごとを増やし守りすぎた、様々なところで常識を作ってきた。そんな基盤が出来上がった途中に今があって、暮らしにくさをも感じる今日この頃です。しかしながら、生まれてきて当たり前に分別ゴミや環境についての認識があり、善し悪しの判断ができて、必要かそうでないかを決定できる能力に長けている人たちが未来には増えていくのだろうか?!と思うと、その人達が時代を担う頃には、今起きている卑劣で卑猥で残酷だと思う事件・事故・不祥事だって無くなってしまうんじゃないか!なんて想像したりする。早くそこに近くなるための変革地点が今だとしたら、未来の人達へも繋げていく意味が見える。

そこで、これらの思考を基準に、芸術文化の関わりにヨッコイと持ってくる。単純に人が人に向けて発信することで、与えられる要素、それを感じて明日の生きる糧にしたり、将来の目標にしたり、人と人を繫ぎ日々の楽しみや喜びとするような、そこに生まれるエネルギーは、芸術的性質独特の人的資源として存在する。これを広く広めていくことで、人々の幸福を感じる質が変わればいい!なんてことを、だまし騙しにやれればいいんじゃないかと思っている。未来は明るいと思いたい。【続】

いやぁ、長風呂のように書きました。

芸術についての作文~☆章 [ハラコマテリアル]

さて、久々のマテリアルは少し視点を変えて。

ハンバーガーを食べた。うーんうまい。
ジューシーね~。
このトマトがまたいい味引き出してる。
そう、このトマトを選択して美味しく調理して私達に提供してくれるハンバーガー店は最高だ。そして、どんどん戻ってく。
このトマトを精魂込めて作って業者に提供している農家も最高だ。
陽を浴びて雨で潤って何年もかけて美味しいトマトを生らしている土壌も最高だ。

美味しいって一言の裏には、いろんなもんが折り重なっていて、みんな生きてる動いてる。
その根本には、素材があること。素材の存在がすべて。
様々な発展のもと、今ある世の中のものに繋がっている。
消費者に一番接点が近いお店だけが儲かってもダメ。
農家はその美味しい素材を作り続けられる環境が必要なわけで、みんなに美味しいって思ってもらいたいのだ。それで幸せに暮らせることで生かされている。
だから農家は土壌にも感謝するだろう。
美味しいは自然のアリガタイに繋がる。
表立ったものだけが評価を得られ続ける訳でなく。
そうあり続けられることの根っこにも感謝。
素材にも還元されてこその美味しいなのだ。

そうして、食だけでなく芸術文化の可能性により、今ある多くの雇用・経済・社会を作った経緯がある。人間が表現することの全て。
感情を様々な形で表し、心に呼びかけてくる才能。
それは誰もが持っている素質でもあるが、少しだけそこに特化して形にして残す、人々に提供することができる才能。
観ること聴くこと触れること読むこと身につけることで
心も体も感情も揺さぶる素晴らしい素材が人間の中に在る。

その素材を使って、展示したり、商品としてパッケージしたり、管理したり、宣伝・広告になったり、建築物として残ったり、学校が出来たり、ソフトやハードの技術の発展に繋がったり、材料を作ること・製作に関わる人材や、メディアの要素、形になったものをさらに利用して販売したり、新たなキャラクターやグッズになったり、実際に触れられないものもあれば、手の届かないくらいの価値がついてたり、その様々なものが企業や組織として存在し成り立っている。素材自体がなければ組織の意味も成さないことだってある。

さて、組織でいられることに関わる全ての人間がどれだけ(素材=表現する才能)の存在に感謝しているでしょうか。または、し続けていられるでしょうか。
もちろんそれだけが全てではないけれど、もっともっと、その素材が幸せであっていいと思う。もっと還元されていいと思う。世の中の為になっていると評価されていいと思う。そう思われることで、さらに素晴らしい才能が生まれ提供される。そうして世の中の発展へ繋がる。順繰りと巡ってく。

例えば、こんな風に国の政策に掲げられたならば。
オバマhttp://www.mecenat.or.jp/news/kmknews/special_obama.pdf

人に必要な要素として見直されたら、人間らしくいられることに不自由じゃなくなるかもしれない。もしかしたら具体的な政策には劣るかもしれないけれど、夢のような話かもしれないけれど、勇気とか元気とか豊かさとかそういう感覚的なことで多くの人が助けられたりするのかもしれない。

かと言って、そうできる人間も容易ではない。
表現する力の長けている人間は圧倒的であれ!

【続】
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