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オリンピックの話をしてみます。 [Rimakon]

1964年開催された東京オリンピックでは、
当時の首相が65歳、東京オリンピック組織委員会会長78歳、都知事71歳。
現在の首相が58歳、国際オリンピック委員会会長55歳、都知事66歳。
Wikipedia調べです。(まぁまぁ合ってるかな?)

世を牛耳る年代ってのがあって、
指示を受け労働して創造に携わる年代があり、
見て参加して楽しむ年代、と分けて見たとします。

前回の東京オリンピックを二十歳前で鑑賞したとして、
現在52歳~69歳位。
25歳ぐらいから50歳までは労働して創造に携わったとして、
現在74歳~99歳位。

当時子供だった人達が、このたび仕掛け人になったわけですが。
たとえ昔の出来事だとしても苦労していない年代が仕掛けますから。
経験や苦労から生み出されるという感じはしませんよね。
サポート的な人達はどのようにか携わった人もいるかもしれないけど。
当時、きらっきらの少年達が何をどんなんして企みましょうかと。
この巡り合わせというのも、なんかあるんでしょうかね。
日本はツイてるのか、憑かれてるのか。

招致が決まって開催までの、今から56年前。
開催までの7年間はどんなもんだったの?
まさに、これからの私たちの歩みですが、
今から歩む7年とどのように比較できるんだろうか。
東京だけでなく、全国各地でも変わりゆく姿があったわけですよね。
人生や環境や家族にとっての変化は、良くも悪くも影響あったの?

牛耳って、人々に指示を与える人達は限られているだろうし、
働き盛りの年代だから全員が労働するとも限らないけれど、
労働者として実際に
会場建設や交通機関などの創造に携わった方、
選手村での食事や医療や通訳や、
交通整備、警備、警察、自衛隊、
報道・テレビ・メディア関連、
旅行業務・ホテル宿泊地・観光・サービス、
開会式・閉会式関連の物品、
チケット、応援グッズ、記念品発行物、
電気や水やガス、ゴミ、環境、
コンピューター、芸能人、著名人、
とにかく様々な分野でいっぱい関わるんだろうなぁと。
思いつくようで、思いつかないこともまだまだ有りそう。

そして、前回の開催を古き歴史として参考にしつつ、
壊して再構築するということもあるわけですよね。
なんか、こう、決まった!というだけで、流れが変わり、
見えるようで見やすくなったようで、どうでしょうか。
結構、不明点が増えてゆくような。
このまま進むの?大丈夫なのだろうか。

複雑で、、、
眉間に力が入る・・・。

ここから、いろんな業態で、お仕事を取り合うのでしょうか。
もう、既に分担されているのでしょうか。
みなさん、仲良く、分け合えるのでしょうか。

無ければ何も無かったところに
余計な摩擦・衝突・突出してゆくような
変なことにならなきゃいいなと。
平和に。

また、前大会をある程度、成人年代で見ていた人達にとって
現在70歳後半~90代ですか、当時をどのように感じておられたのか、
オリンピックは楽しかったですか、何か希望は叶いましたか、
したくて叶えたくて、でもできなかった野望はありましたか。
その後の、日本の歩みをどのように感じてこられましたか。
もし、周辺でお話しが聞ける方がおられましたら、
昔話を聞いてみてはどうでしょうか。

そこにもいろんな思いと共にアイデアも有りそうじゃないですか。
なかったモノを造り上げてゆく様をどのように感じていたのか。
俺なら私ならこうしていたわ!というヒントがありますでしょうか。

ちょうど、うちのバーちゃんが、その年代です。
そういう話、したことないなぁ。

さーて、
本当にここから7年間はどんなんなるんだろね。
7年間もそうだし、その後も・・・。


今日、起きて思ったこと。 [Rimakon]

起きて今、思ったこと。
忘れないうちにメモ。

それぞれの時間には限りがある。
環境が備わらないことも多々ある。
一つの体でできることも限りがある。
人は一つ、みんな違う。

いま、インターネットを浮遊して
何を思ったかというと。
出来る人がやればいい!ということ。

お金も有る人が有る時に思ったように使えばいい。
時間や道具や環境や能力…
様々に今!持ち得たモノを思ったように使えばいい。
無いことは苦しいことでも惨めなことでもない。
全く何も無い!という人はいるだろうか。
全世界くまなく探せばいるかもしれない?
ってぐらい、何かしらは持ち得ているはず。
誰かが持ち得ているモノとの差を感じさせる場面は
幾度もやってくるだろうけど。みんな違うんだ。
それでね、いまはね、
有る人が使うことで、使ってみせてくれることで、
そこでその場に居ても居なくても
バーチャルに体験することも可能になったから。
その人が、費やした時間や労力をかけずに、
似たような体感をすることが可能になった。

最近だとイチローさんの4000本安打
あれは、労力と時間をかけたイチローさんの記録に
その場に居た人も、テレビ見てた人も、日本にいる私達も
決して同じ喜びや感じ方では無いだろうけど、
同じステージで分かち合えた!そんな気がした。
そして、イチローさんは、皆を導いてくれたんだなぁ。

例えば、、、
フェスが開催されて、何かの都合でその場に居なくても、
同時間、あまり差もなく。
その場にいる人を通して体感できるようなツールが現れたこと。
誰かはA地点、誰かはB地点でしか体験できていないけども
C地点からも見ることができて、
すぐにA地点にもB地点にも角度や距離や方向を変えることもできて、
一つの体の限界を楽に飛び越えてしまう。
そこに、もしも、
羨み、妬み、悪意の目で見れば閉ざされてしまうけれども、
純粋にソコへ立つ人々と共有する喜びを感じられれば、
想像する域は果てしなく、もしかしたら
その場に居る人よりも遥かに豊かな心になるかもしれない。
という人間想像の未知な可能性も広がった。

今まで、テレビ社会で。CMを見て欲しくなって買う。
モノを得ることで豊かさを得られた時代、長く続いてきた。
どこかのお店の何が美味い!と、タレントさんが宣伝も兼ねて表現してみせる。
それで楽に行列が作れたけれども、
もし、想像することやバーチャルに体験することで、充分に豊かだ!と思えるなら。
行列どころか宣伝効果にもならない。
私達は実際に体験することでしか感じられないと思ってきた、(思わせられてきた?)
でも、バーチャルでも良ければ時間やお金や労力も短縮節約できて、
他のことへも補い費やす領域が新たに増えてゆくんじゃないか。
実際にお店に行くことや居ることよりも、
空間的にその場の人々と楽しんでいることもあるし。
そこで、話した笑ったことで満たされてることもあるし。

そんなことを言うといろんな業態の在り方として
否定することに聞こえるかもしれないけど、
それは、常に挑戦や課題なんだと思う。
お客に合わせる?、お客を合わせる?
空気を感じることとか。

また、そうした行為を自分が体験者としてやってみる、
実際に体感したことを綴ることで、公開し共有することで、
身の周りの人から、知らぬ誰か、言葉も通じない遠くの国々の人までも、
豊かさを与えられる可能性がある。

でも、よく考えると
ずーっとずーっと、そんなことは続いていて、
まったく新しい思考でもないんだ。
豊かさの到達点として、
お金や地位やモノや様々な形で手に入れる、
実際に実現化することに象徴された時間が長く続いただけで、
インターネットの普及によって、
少し眠っていた想像力を覚醒しただけなんだと思う。
だから、豊かさの追求として、
今、仮想と現実の両極を選択できる。
ここまで進んだ!といっていいのか、
もしかしたら隣に有ったのに見過ごしてきただけかもしれない。

そんなことを思ってみたら、
人の想像力の果てしなさや、可能性にワクワクしてしまったのだよ。
純粋に想像力を扱ってみること、試してみることに。



きょうの朝思ったこと。 [Rimakon]

今日の朝、歯磨きしてシャワーしながら
思っていたこと。

いまのところ、わたくしは独身でありますが、
これから先も、続くかもしれないので。

こんなことも考えてるくらいですし。。。
(あとまわし。)
http://haramastu.blog.so-net.ne.jp/2012-12-02

そんなわけで、子ども、孫に囲まれる環境からは遠く。
独居の老いを覚悟する必要もあるのでしょう。
そうだなぁ、、、
今も、独りで亡くなっていく方もおりますよね。
どんな心持ちでしょうかね。
今でこそニュースになって切ない虚しいとか、
40年、50年も進めば、どういった環境で、
どのような思想の人々や社会があるのか
そういった周りの変化も肌で感じながら。

そのまんま何にも考えずにいたら、気づいた時には遅いかもしれない。
今は、独りが楽チンでも、そうも言ってられないだろう、
想像して・・
やっぱり嫌だな、独り・・・って、
これから、本当に、直面する時がくる。
祖母も母も先に亡くなった場合に、
おぅ、遂にきたか!と思うんだろうな。
その時が、何歳かもわからないけど。

いま、気づいた時からの最低限の対処、
身固めといいましょうか。できることの準備。
実際、老いるまでの人生なのか、その前に終えるのか
いつか?なんてわからないから、
何を準備するのかも、わからないよ。

それで、今日思ったのは
できるだけ、いろんな人を家族や仲間と思えるように思ってみよう。
老いたら、どこでどのような住まいで、
もしかしたら病院かもしれないけど、
誰でもいつでも遊びに来れるように開放して
あの、おばあちゃんとこ行こう。お話してこよう!!
そんな風に思ってもらえる、おばあちゃんになろう。
そんな環境づくりもしてゆこう。
そんなことを思いました。
老いて、頑固であれば、周りも自分も大変苦労すると思うの。
手助けを自然と受けられるような、老い方ってのを考えながら。
おもしろいお話や役に立つことも話せるような感じかな。
どうせ、カラダが使い物にならなくなるのなら、
別の事でも補ってゆけるように、養って蓄えて、
何か教えられるようなこともあれば良いなぁ。

アンテナと引き出しと風呂敷。笑

一生を想像してゆくと、
自分!自分!って言ってられる時間も短いんだろうね。
自然とさ、身のまわりや社会や地球へと巡り繋がって、
協力的な生き方になるんじゃないかな、
今は漠然とした感じでしかなくても、
あっと言う間にそんな日が来るのかも。
老いの準備の第一歩。


明解に通じる道筋。 [Rimakon]

日本の嘘は世界の嘘です。
日本人への嘘は世界の人々への嘘です。
ワタシの嘘は宇宙への嘘だ。

そういうことですよね。

これからは正直者とコミュニケートする。
正直とか誠実とか、実際はどんな姿なのかな。
なんで隠してしまったりするのかな。
良いことならバシバシ見せてくれた方がいい。
正直者は損をするとか、バカを見るとか
そんなことを、もう言わせませんよ。
本当に、正直さや素直であることは良くないのですか?


明確である情報、今それがそのものであることを明かされなければ、
次への手段は見えない。
きっと、明らかになっても、既に遅いものばかりで、
ゼロからマイナスから手段を探さないとならない。
妥当案!も代替案!も現状での解決方法、策がないってことは
手当たり次第でしかない、手探りで組み合わせながらの同時進行。
今、最も最適な方法が無いってことを見せ付けられてるんだろうなー。

長く、専門家・専門職であることに任せてきただろうけども、
たった数十年ぽっちなんですよ、きっと。
人生だってそうでしょ、苦楽もいろんなことがある。
全ての人が体感する苦楽なんて無いわけで、
みんな環境も時代背景もバラバラななかで、
体験した人や歴史から想像したり、日々や自分と重ねてみたり
時々思い出し、記憶を辿って苦楽を知るんでしょ。
そうして人間的に形成されてって、人生ってこういうことかなぁみたいな。
そういうことからも、現状で、
様々なことに熟知した専門家はいないのかもしれません。
肩書きの効力有る間に、何もトラブルがなかったら、
トラブルに対処できない専門家だし、トラブルを知らない専門家だし
運よく、やり過ごせちゃった!というだけです。
それぞれの立場で得意分野で能力や知識ある人達が
それぞれを尊重して、へし合うことなく目的に準じて遂行する。
それは、信念をもって情熱を絶やさずに携わることですよね。
そういう人は勝手に集まるのかもしれない。
そういう姿を自然と見せていれば。

今、策が無いということは、
この先も、明確にならなければ、今ある専門分野の中では明解はありえない。
こういう考えも有るってのを見ないフリしちゃったからだ。
狭められた限られた制限の中での専門でしかなくなりました。
だから、一定の領域では効果を為すが、一定を超えた領域では意味を為さない。
そう、自ら認め留まってしまったから、挑戦者はいませんね。
そんな専門家に、頼るのであれば頼ったなりの進み方でしかなく、
新しい方法は生まれにくいと思った方が良いのだと思う。

もしかしたら、家族との団欒のなかで、ちょっとした会話から
もしかしたら、外出先でちょっとした行動や光景から
そんな、あらゆる場面や人々の行為から沢山のヒントは溢れていて、
そのヒントを自分のいる立場や能力を活用して
よし、それは僕にしかできないだろうから僕がやろう!
目的の為に活かしてゆく、活かそうとする人。
場面に応じて柔軟になれる心身。
そういうことも兼ね揃えてこそ、専門家だと思う。
積み重ねてきた経験の中に作戦に挑める手段が見当たらない時は、
それは、自分の中には無いのだから、解体して構築し直さなきゃならない。
もしくは、別分野で長けた人達の力をお借りする。
壊すことも修正してゆく持久力もあること。
専門にすることの意味や役割をどのように理解して
そのように存在する事をどのように理解してもらい価値として評価してもらえるか。
知性を失った頭でっかちんの専門家は、もういらないんですよ。
今、一時を生きていられたとしても、それぐらいのものです。
信念と情熱はどれほどのものか。
ヒントもチャンスも逆転も!
ワクワクする材料はいっぱいあると思うのだけど。

*この場合の信念は固く何かを信じるではなく、
志し、行動の基板となる軸みたいなもの。としておきます。

人類70億(以上もの)追求と役割。 [Rimakon]

もって生まれる先天性と、経験や成長から得る後天性。
個々の性質や能力は今、世界に70億以上有ることがわかった訳です。
それは全て違い、役割や使命のようなモノもそれぞれに含まれると思う。
なので、それは全て可能性の追求であり追究、
追い求め、明らかにしてゆく。
つまり、実現させる為に存在する人が、沢山いるということ。
ただ、その役割みたいなモノや、個々の特性を何に生かすのか?
自身でもよく解らない。
何か惹かれるモノなのか、存在そのものなのか、
良い行いとも限らない、悪い事かもしれない。
とりあえず、皆違うのだけれども、
現状では、ソレを重視したり後押しするような教えや状況には無いようです。
まだなのか、もうなのか、も解らないな。
先に生まれた人達の創ってきた歴史なり仕組みなり
教育なり生き方による影響を何かしら受けるのだけども、
個々を尊重する!!と、意識づける動きにはなっていないのだと思う。
多くの人達を大きく括り、数字や色や言葉や地域で区分して、
だんだんと個々へ意識を向ける時を進めてきた、もしくは近づいてきた。
そんな歴史を辿ってる途中のような感じ、の今。
しかし、もう既に地球の中に存在するモノが、
空からも宇宙からも確認できる状況にあり、
地球体規模から、個々の細胞まで遠近できるよ。
それが、可能性の領域や幅のようなものかもしれない。

何かしらを実現させること、実現に向ける過程。
一つの命からゼロでスタートするモノもあれば、
時を進める中で、過去の素材も生かしながら繋がりながら
膨らませて広めてゆくようなモノなども、有るように思う。
今、2013年21世紀を示す。
未来の確実さは解らないけれど、時代の先端に居ながら、
歴史上では、まだまだ途中に居るのだなという感覚も、なんとなく解る。

自分は、20世紀と21世紀を跨ぎ、
今命有るけれども確実に21世紀の中で止まる。
どんなに医療が発展しても22世紀を跨ぐことは無いだろう。
あったら逆に恐ろしいな。
と、いうことで老いてゆく自分を追いかけるように時を進めて、
同時代に生きる人達と共に存命の限り、可能性を追求する。
それを、21世紀物語と称して共存したらば大変に愉快じゃないか?と思ってる。

はい、それで可能性についてですが、
歴史の中で記録や記憶にも多くの命を失って時を進めていることは確かです。
流れとしても大きな枠組みから小さな枠へ進むのかと思いきや、
その両方の存在!みたいな、ちょっと曖昧な道筋も出来てるように感じる。
個々は個々として完全に分離せず、大きな地球体も意識せずにいられない感じ。
過去を遡ると大きな力を持つ人を筆頭にして、
沢山の人が、奴隷、家来、の役割となって時代を創ってきた。
指揮・指導となる人の役割や主張や種類が様々に現れ、数も増えた。
日本だけでも、将軍・殿様時代から、地位や肩書きも沢山存在してる。
それらが、どのような意義で、地位や肩書きがあり、
それらが在ることで、どのように人々や社会に反映し役割となるのか
先人を例にして、後世は学ぶことができるわけですが。
時は、流れております。
今は、戦国、戦前、戦後でもない。
真似っこしたい憧れの象徴も、
スポーツ選手や芸能人や様々な職業へと移り変わりました。
どれほどの自由へ時を進めたのかと思います。
日本は、進路・方針の自由が有る国になりましたよね。
昔なら、最も象徴的なのはヒトラーでしょうか、ナポレオンとか徳川家康とか、
目指すモノと考えるかは別として、時代象徴だった方々。
独裁、鎖国、という限られた範囲の中で能力を発揮した人達、
と、いう見方も今ならばできるかもしれませんよ。
己の役割として、制限された中で実現させる可能性を追求した。
決められた範囲内、目に見える領域での可能性を最大限生かした。
他人の時間や生涯を侵害しながら、得た地位や名誉とも言えるのかな。
そうした思想や精神は、なんだか、苦しいし狭いし大変そうです。
実際、その時代も地球は今と同じように存在し続けていましたから。
そうして、時を経て学ぶとすれば、
自身の可能性を活かし追求し追究してゆくには
領域を制限せずに、広い観点で、
挑戦して超越してゆくこと。

制限、制約、制止、抑圧、服従、略奪、侵略、忍耐、
争い、妬み、怨み、憎しみ、復讐、悪意、敵意、・・・
言葉思いつくだけ並べましたが。
人々が、自身の可能性や地球体の中での可能性を
見出してゆこう!と働くことがあるならば、
上に並べた、精神や思想も衰退してゆくのだと思いますよ。


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